水運幹線路
・ 海岸砂丘の後背湿地の新田開発のための排水路としての機能
を持っていました。
今から約410年以上前の慶長年間に掘り始められ、明治5年まで約280年の歳月を費やして、整備されました。いわば3世紀近くにわたる取組の偉大なる遺産とも言うべきものです。
(参考:名称の経緯)
① 開削当初の名称は、木曳堀(こびきぼり)、御舟入堀(おふないりぼり)、新堀(しんぼり)であった。
② 第二の名称である「貞山堀」は、明治16年~23年の堀改修事業の際に、伊達政宗の偉業を後世
に伝えようと考えた当時の県の職員によって名付けられた。「貞山」とは伊達政宗のおくり名。
③ 第三の名称の「貞山運河」は、明治16年から始まった貞山堀改修のときに、運河取締規則の中で
「運河と称するは、野蒜東名及び貞山の各運河を云う」となり、「貞山堀」が「貞山運河」に改称され
た。 ※野蒜東名:野蒜(北上運河)と東名(東名運河)のこと。
(2) 貞山運河の構成(木曳堀・御舟入堀・新堀)
貞山運河は一挙に全水路が開削されたものではなく、区間ごとに開削延長されていったものです。
木曳堀:慶長2~6年(1597~1601)
貞山運河で最初に掘られたのが阿武隈川河口の荒浜から名取川河口の閖上間の15キロメートルの木曳堀。
伊達政宗は、玉造郡岩出山城(現在の宮城県大崎市岩出山)から国分氏の旧城であった千代城跡に仙台城を造営するとともに、城下町を建設してその地に移りました。この築城および城下町建設のための木材輸送と、沿岸の名取谷地の開発を目的として開削されたのがこの水路です。
その開削年代は、川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)の着任後最初の仕事と考えられており、慶長2~3年(1597~8年)頃とされています。この南部水路の開削により、藩領南部の木材などを主とした物資は、阿武隈、白石両川の水運を通じて本水路に入り、名取川を遡上して仙台に通ずるようになりました。
御舟入堀:万治元~寛文13年(1658前~1673)
御舟入堀は、塩釜の牛生から七北田川左岸の蒲生までの7キロメートルの北部水路で、藩領北部と仙台城下を結ぶ貢米を主とした物資輸送路として開削されました。
この水路は、順次掘り継がれ改良されていったもので、まず牛生~大代間の約3キロメートルが万治元年(1658年)までには開削されています。この開削の意図は、 ① 舟が花渕崎沖の外洋を回らずに松島湾から大代(おおしろ)に通じ砂押河道を遡上できること、
② 上流域の開発に伴い流送土砂が多くなるとともに、海岸漂砂のために河口の維持に困難があ
ったこと、
などの理由によるものでした。
それ以降、何回かにわたり掘り継がれ、最後は寛文13年(1673年)に七北田川から苦竹までの御舟曳堀とともに完成しました。
新堀:明治3~5年(1870~1872)
貞山運河のうち、荒浜・閖上間が慶長年間に、塩釜・牛生・蒲生間が万治および寛文年間に開通し、物資の輸送ルートは、南は阿武隈川~木曳堀~名取川~ご城下の舟丁と、北は北上川または鳴瀬川~松島湾~舟入堀~七北田川~舟曳堀~苦竹御蔵とが水運で結ばれました。この南北のルートを結ぶ水路である蒲生・閖上間の9.5キロメートルの開通は、前記のルート外であるためにおくれ、明治時代に入ってからのものと考えられています。この区間は、新堀と称されています。
この新堀は、民間商人の方々が窮民救済工事として着工したという説、材木を城下に運搬する水路とするためものとする説などがありましたが、その後の研究では、士族の生活安定のための開拓事業とからませた仙台藩庁の公的な工事であったとされています。
2 北上運河・東名運河・高城川
北上運河:明治11~14年(1878~1881)
東名運河:明治16~17年(1883~1884)
明治新政府は、鳴瀬川の河口の野蒜(のびる)に一大貿易港の建設を計画し、明治9年ファン・ドールンなどに現地調査をさせ、内務省直轄事業として同11年7月に北上運河の開削に、翌12年7月には内港工事に着手しました。これは、長崎港より4年、横浜港より11年も早い築港でした。時の内務卿は大久保利通。この野蒜港は完成すれば東日本の中核基地ともなるべきものであり、したがって後背地との交通網の整備拡充が計画され実施されていきました。
北上・東名(とうな)運河はそれぞれ明治14 年、17年に完成。内港は同15年に完成しましたが、同17年の台風で内港の突堤が壊滅。これにより外港に着手することなく工事が打ち切られてしまいました。
※野蒜築港については ⇒ こちら を参照。
高城川
高城川は、水害防止の役割を担った人工河川です。鳴瀬川が増水するたびに逆流をおこすことから、品井沼(しないぬま)はその遊水地的な存在でした。高城川トンネルの原形は、元禄時代に掘られた松島湾への排水路の元禄潜穴(げんろくせんけつ)です。その後明治32年の水害を契機に、新たに明治潜穴が開削、さらには吉田川サイフォンなどの改修工事が進められ、吉田川が品井沼から分離され、品井沼は豊かな穀倉地帯へと変貌をとげていったのです。
●運河略年表
神亀年間 (724~9) | 陸奥鎮所、市川村に移り「多賀柵」とよばれ、のち「多賀城」となる。この頃、七北田川湊浜に流れ、下流は市川とよばれ、湊浜は国府の南の港として繁盛する。 |
延暦21 (802) | 坂上田村麻呂鎮守府を多賀城より胆沢城へうつす。 |
貞観11 (869) | 5月 大地震、多賀城下津波に襲われ、市川は埋没し舟航に支障をあたえる。 |
延喜天慶間 (901~47) | この頃多賀城南門と市川間に運河が掘られる。 |
永承6 (1051) | 源頼義陸奥守となり国府に来任する。 |
治承5 (1181) | 藤原秀衡陸奥守となり、多賀国府には目代をおいたという。 |
弘安8 (1285) | この頃、七北田川沿岸に市場が開かれている。 |
元弘3 (1333) | 北畠顕家陸奥守となり、義良親王を奉じ多賀国府に来任する。 |
天正19 (1591) | 9月 伊達政宗、米沢より岩出山に移る。 |
慶長2~6 (1597~1601) | この頃川村孫兵衛重吉、荒浜~閖上間の木曳堀を開削する。 |
慶長5~8 (1600~3) | 仙台築城、8年8月 政宗岩出山より仙台に移る。 |
慶長16前 (1611前) | 七北田川放水路(蒲生河道)工事を実施。 |
慶長16 (1611) | 10月28日 地震大津波、仙台海岸地方被害甚大、砂押下流埋没し舟航困難となる。 |
明暦4迄 (1658前) | 舟入堀牛生~大代間開削される。寛永3年に着手か。 |
万治2~4 (1659~61) | 舟入堀大代~蒲生間開削にかかるが通船に至らず。 |
寛文4 (1664) | 3月 和田房長、佐々木伊兵衛、舟入堀改修の実地調査。 |
寛文10~13 (1670~3) | 10年4月 幕府の許可あり、8月着工、新田口の締切、七北田川蒲生河道の改修、舟入堀の改修、舟曳堀の開削がおこなわれる。この結果、七北田川は砂押河道とは分離されて蒲生のみに流下するようになる。 |
元文1 (1736) | 12月 佐々木多太夫、大代~蒲生間の浚渫を建議、翌年実施か。 |
寛政11 (1799) | 大代~蒲生間浚渫を実施。 |
天保9 (1838) | 島貫兵記、蒲生~閖上間の運河開削を計画するが実現せず。 |
明治3~5 (1870~72) | 新堀蒲生~井土浦間、救済事業として開削される。7~8年 一部浚渫。 |
明治11~18 (1878~85) | 野蒜築港工事、17年の台風で被災、中止となる。 |
明治14 (1881) | 木道社、大代~蒲生間の浚渫をおこない、貨物運送業をおこなう。この頃、早川智寛、舟入堀、新堀、木曳堀を総称して「貞山堀」と名付く。 |
明治16~22 (1883~89) | 県営事業として貞山堀を全面改修。 |
明治22 (1879) | 5月 「運河取締規則」を告示、「貞山堀」を「貞山運河」と改称。 |
大正10 (1921) | 5月 蒲生南閘門改築竣工。 |
昭和2 (1927) | 6月 蒲生北閘門改築竣工。 |
(出典:貞山・北上運河沿革考)
*** *** *** 上記の内容は、宮城県庁職員であった遠藤剛人さんが長年研究し、まとまられた『貞山・北上運河沿革考』 (平成元年3月発行)から抜粋してご紹介したものです。遠藤さんの研究成果は、貞山運河を総体的に紹介したことにとどまらず、後輩の県庁職員や後に続く研究者が困らないようにと、関連資料にはどのようなものがあるか、またその所在場所はどこかなど綿密に整理したという点にも非常に大きなものがあります。