■セイ・ファン・ドールン
1837~1906
オランダ人技術者で野蒜築港の設計者。明治5年明治政府に長工師として来日し(35才)内
務省に所属し、三国・鳥取・函館・桑名の諸港の防波堤工事を行う。明治11年石巻湾、松島湾
を視察し、野蒜(のびる)を築港の適地と進言。野蒜・北上川間の運河の開削を計画し、北上川
との水位の差にそなえ閘門(こうもん)を設ける設計とした。10月北上川の分疎の起工式に土木 局長 石井省一郎と出席し祝辞を述べている。野蒜築港、北上運河、東名運河を設計したが、
完成を見ずして明治13年2月任期満了で帰国した。野蒜築港は挫折したが、ドールンの功績と
して残っているのは安積疎水(あさかそずい)であり、猪苗代湖畔に銅像が建っている。
(セイ・ファン・ドールン像と安積疎水十六橋水門)
※ 現地探訪の紹介 ⇒
こちら■石井 省一郎
【いしい しょういちろう】 1841~1930
小倉出身。内務省土木局長として北上川と北上運河の接点となる高屋敷に設置された閘門 の名の由来となる。明治11年10月8日の起工式で宮城県令 松平正直によって命名され石井 閘門(いしいこうもん)となった。幕末・戊辰戦争(ぼしんせんそう)に活躍し、明治2年民部省に 入り、同10年土木局長となり地方の土木行政の確立に勤めた。野蒜築港計画にともなう運河
工事を推進した功績は大きい。
明治17年岩手県令、同19年岩手県知事、同30年貴族議員となる。昭和5年90才で死去。
■黒澤 敬徳
【くろさわ よしのり】 1838~83
野蒜築港の工事担当者。明治11年6月工事担当のため内務省から出張してきた土木局員の
一人で、身分は内務五等属であった。工事の途中でドールンと早川智寛が去ったあとの現場を
担当した。敬徳は幕府の料理人清水瀬兵衞の子で、明治維新後商人となり、黒澤屋吉之助と
称し、黒澤を氏とした。かつて大阪城部にあって土木に精通し、内務省にはいり累進して一等
属となった。野蒜築港の工事を監督し、閘門、防波堤の難工事を遂行、明治15年12年病を得て
東京に帰ったが、16年2月に没した、45才であった。浜市の市街地跡地に頌徳碑が建ってい
る。
■細谷 十太夫直英
【ほそや じゅうだゆうなおひで】 1845~1907
仙台藩士。武一郎とも称し、鴉仙と号した。禄高50石の大番士で、戊辰戦争に際し衝撃隊を 率いて活躍。衝撃隊は黒装束をまとっていたことから烏組とも称し、藩長軍に恐れられた。明治
元年9月下旬、石巻地方に布陣した旧幕府軍と矢本まで迫ってきた藩長軍との一触即発の危
機を迎えたとき、十太夫は旧幕府軍を説得し、米薪塩油などを親友の毛利理兵衞に願い調達し
て与え、石巻から去らせ石巻の住民と町を戦火から救った。明治13年運河開削に伴い、牡鹿が
原が開墾可能となったので、旧仙台藩士を救済するために士族開墾場が開かれ初代代表とな
った。
■宮澤 賢治
【みやざわ けんじ】 1896~1933
大正・昭和初期の詩人・童話作家。岩手県生まれ。盛岡高等農林学校卒。農民指導のかた
わら宇宙感覚をもつ想像力豊かな詩・童謡を多数発表した。代表作に詩『雨ニモマケズ』童謡
『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』など。賢治は明治45年5年27日盛岡中学4年の修学旅行に北
上川を川蒸気船で下り、石巻の日和山から生まれて初めて海を見て感動をうけている。その歌
碑が日和山に建てられている。
賢治死後3年が経った昭和11年(1936年)に建立された『雨ニモマケズ』碑(花巻市)は、石巻産
の稲井石を使用。
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■原 敬
【はら たかし】 1856~1921
明治・大正時代の政治家。盛岡藩士の家に生まれる。新聞記者を経て官僚となり、のち立憲
政友会の創立に参加し、大正7年政友会を率いて内閣を組織し首相となり、「平民宰相」とよば
れたが、同10年東京駅頭で暗殺された。原敬は、新聞記者時代の明治14年5月から10月にか
けて東北の産業を視察し開拓地、港湾などをくまなく歩いている。8月三陸から南下し、気仙
沼、志津川、柳津から北上川まで船で下ろうとしたが、渇水のため船は動かず、徒歩で石巻に
着いた。ここで石巻港の荒廃を指摘。9月7日野につき、土木局の黒沢敬徳を訪ね、築港につい
て説明を受けている。
■司馬 遼太郎
【しば りょうたろう】 1923~1996
大阪府生まれ。本名は福田定一(ふくだていいち)。ペンネームは「(史家の)司馬遷に遼(はる
か)に及ばず」という意味。60年「梟の城」で直木賞受賞。75年芸術院恩賜賞受賞。93年文化勲章
受章。昭和60年2月25日に貞山堀を訪れている。それが『街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻』で
紹介されている。「ともかくこれほどの美しさでいまなお保たれていることに、この県への畏敬を持っ
た。・・・宮城県がこれを観光として宣伝することなく、だまって保存につとめていることは、水や土手
のうつくしさでよくわかる。仙台藩の後身らしく、武骨で教養のある風儀が、そのことで察せられるの
である。」(出典:同著)
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