御舟入堀と願文
御舟入堀は、塩釜湾口の牛生(ぎゅう)(現・塩竈市)と七北田川河口の蒲生(現・仙台市)とを結ぶ全長約7キロメートルの運河である。この運河開削の構想は、御舟入堀と七北田川の舟運で古くからの湊(港)である塩釜と仙台城下町を結び、塩釜湊に送られてくる米などの重い荷物を水運で城下近くまで輸送しようとするものであった。
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この御舟入堀の開削にあたって、藩の財政を預かる収入司の職にあった和田織部房長と工事担当者とされる佐々木伊兵衛(川村孫兵衛の三女の聟(むこ))が、工事の無事安穏と完成を塩釜神社(正式表記は鹽竈神社)に祈願している。
和田織部房長の願文には、安全な工事は塩釜神社の御加護によるもので、これに報いるために工事が完了したときには石灯篭二基を献上すると記されている。和田織部房長が奉納した石灯篭は塩釜神社境内に現存し、奉納の日は「寛文拾三年三月吉祥日」となっている。
一方、佐々木伊兵衛の願文には、「同年(寛文10)八月十七日」に着工と記されている。
この二つの願文によれば御舟入堀は1670年(寛文10)に着工し、1673年(寛文13=延宝元)に竣工したことになる。
和田織部房長の願文
稽首敬白
塩釜大明神曰願吾君羽林少将兼陸奥守藤原朝臣綱基克仁克寛君此大邦、子々孫々長保社稷、宰臣賢良吏士忠義、庶民安寧国家隆盛是臣之常祈所也、臣以不肖之才幸継祖考之家、官位国相食緑三ヶ村、重荷君恩常恐素餐之責、故戦々競々平生懐報国之志、爰仙台国郡其幅員数十里、其士民数万家而曽運漕之便、士民困運輸、昔吾先君政宗卿以来有欲令疎さく溝洫便運漕之志、末成士民憾之、故臣興大願欲成此事謀士大夫咸以為可也、故謹告吾君云云、君請台命而命臣以溝洫之事、自仙台城下至東海已三十里、其間有山有川有斥鹵、雖庶民子来成功也定有人力所不及歟、是故竭丹誠願憑明神威力其巧不日成、諸吏役夫無恙永利民用国富豊万々年是無疆、所願成就即為報賽謹献石燈籠二基、且終臣之躬毎歳春正月夏五月秋九月或躬親神官、或使人摂詣神宮永謝明神威徳、再拝稽首々々敬白
干時寛文十庚戌年七月吉辰
佐々木伊兵衛の願文
神力を頼て国家万吉自在之舟入普請成就之誓願也、抑塩釜大明神宮昔年為両神水は為天と不登といふ事なく為地と不至所なし、故に水を用る時に至ては明神之可奉頼通力自在事、於此所に如相生之御舟入には最初より為大守公之求神助をなふしうの験有て上一人より下万民に至迄其物調ふ吉事有、御鍬初之後宮城之郡百姓等一同に心を合此舟入を掘る、是神明之通にして非行及人力、続而人民力を合、舟入成就無疑、爰に神明通力を以祈所は曲而悪所を除き直にして善所を可通所也、不○人心之所にして神徳之加護有、適君臣と生れ禄微少たりといへども我に上たる人、大守公之領内に其数少にして為下人は数多し、是君恩之至也、義之重を以我命之鵞毛より軽きを捨る事はやすく、事を調はかたし、神は非礼を請不給、予為身也は早く身命を失い給へ、大守公並に領郡之人民之通力を尽すは寿命長遠にして、舟入成就之願久年、為愚身之不求神助然所に、大守綱基公之城下万福自在諸人こんきうをすくはんために和田織部房長寛文四年三月上旬仙台舟人見立のため発足の刻愚育之我も鶴ケ浦に至り舟之通用をもとむ粗四ケ年を経而同十年四月上旬此旨征夷大将軍正二位源之左大臣家綱公之達所上聞、綱基公領郡為人民の伺其旨を和田織部、上意告愚私に同八月十七日御掘初有り、当此時、大守公之立先吉かんかみるに綱基公両郡之境を諍節奉願神通力ことを令愚案処に、東方瑠璃光如来は法之薬を以差別之病を全治し給ふ為御誓願文間、大守公之利を失ふ時には我命に替而勝利を令見給へ元来万善之於為防利は法立薬を以早く差別之病分つ神霊の徳を祈奉る所にあやまたす、ふさかる物通し誠成もの立是為神徳非所人力為忠重命を軽く失ふは賤の臣之道也、誠を以神霊之加護有り吉祥如意の例々令満給へ、殊に諸役人衆諸職人衆人足等に至迄心一同に合七難を払而悦之神護を奉祈、舟入立見之誤を神護の助に預らんと非奉祈、難成就於為普請は、大守公之金銀費さる其先にも予命を給へ、是祈所也、元来舟入成就無疑所に諸入之難儀とをうしなふにおいては人再可問而身を害し明神之奉神徳を失外無他事、夫れ、塩釜大明神宮は奥州之為鎮守、就中当大守綱基公之為鎮守、速に国家人民きんきゆうをすくはん事神の為、徳者此堀成就無疑、為大守公之二度我命を軽くして義の重きを以て請願成就は神徳之新成事を首度之礼拝に奏し大守公万才楽之奉幣を捧げ喜悦之眉をひらくべし 敬白
寛文十年九月吉日
願主佐々木伊兵衛
塩釜大明神宮御宝殿
奉 納
<補記>
『仙台市史通史編3 近世Ⅰ』では、出羽国庄内藩資料『川上記(かわかみき)』によるとして、堀の普請に当たって、次のような興味深い話を紹介している。
・ 仙台御軍(郡)内の人足を使わないで、 他国から日雇いを雇うこととし、
・ 鶴岡城下三日町(山形県鶴岡市)の最上屋仁右衛門(もがみやにえもん)所へ仙台から日雇いの二人がやって来て、
・ 200人程はまず庄内から雇いいれたい、という申し出をした。
(賃銭は13日で金一歩、藩の賄い付きの場合はその半額)
(参考文献)
・ 『多賀城町誌』 多賀城町誌編纂委員会(昭和42年10月10日発行)
・ 『仙台市史通史編3 近世Ⅰ』 仙台市史編さん委員会(平成13年9月1日)
・ 『貞山・北上運河沿革考』 遠藤剛人
・ 『もう一つの潮騒―仙台湾・みなとのすべて―(前編)』 佐藤昭典
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(御舟入堀:大代付近上流部 2006年7月撮影)
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(御舟入堀:大代緩衝緑地公園/手前は砂押川 2006年7月撮影)
※写真提供:宮城県土木部